由緒

 

 

永承天喜康平1053〜1063の昔、陸奥守兼鎮守府将軍源頼公・源義家公御父子が、安倍頼時(初め頼良)子・貞任/宗任等御退治の勅命を受けて、奥州へ下り、しばしば戦功をたてられた。

その義家公、当地に御在陣の折、朝敵退治御祈願のため、本宮地に清砂を敷き、上差しの白羽の鏑矢を砂上に立て、八幡伸の御霊とした。

従臣もこれに従って各々鏑矢を捧げ奉った。その鏑矢の数は十二本。

それに御太刀一腰、御願書一巻を奉納し、従臣共々祈願された。安倍氏平定後この地に社殿を建立された。これが鏑八幡神社である。

 

この鏑矢の由来をもって、村名を十二ヶ鏑矢村と称してきた。

ところが寛文七年(1667年8月)巡検使佐々又兵衛・中根宇右衛門・松平新九郎の一行が土沢に宿泊。その節、当村名の由来を尋ねられた為、古老が矢の由来を述べ「十二ヶ鏑矢村」と呼び来った旨を奉答した。

これを聞かれた御役人衆「言長くして不可也。十二ヶ村と改むべし」と申された。

その為に以後「十二ヶ村」と呼ぶ事になったと伝えられている。

八幡宮も建立以来幾星霜を経て大破した為、正徳元年(1711)安俵通・高木通十二ヶ村の奉加によって社殿を改築してきた。

町内の神輿渡御も、この年から行われている。

 

明治三年四月記載の「十二ヶ村戸籍」に初めて「鏑八幡神社」の名称を見ることができる。